エスコラピオス修道会遺跡 蘇った廃墟

マドリードのラバピエス地区のエスコラピオス修道会遺跡を修復して国立通信教育大学の図書館と教室にするプロジェクトは、都市再生の好例です。このような例は、古い遺跡や歴史的建造物が、現代の都市に新しい形で蘇ることを示してくれています。
エスコラピオス修道会遺跡 蘇った廃墟

最後の更新: 17 12月, 2020

マドリードのラバピエス地区にあったエスコラピオス修道会教会とその周辺の再建プロジェクトは、廃墟と化していた建物を蘇らせた素晴らしい例でしょう。このプロジェクトは都市環境からインテリアデザインに至るまでさまざまなレベルに渡っています。

元々あった建物の構造と各々異なるタイプの関係を保った様々な種の建築構造が使われています。新しい建築素材を融合させながら全体として一つにまとまっていることに最大の注意が払われました。様々な手法は個々の解決策を超え、基本概念が全体に反映され調和して一つにまとまるように意図されて具現化されました。

エスコラピオス修道会遺跡プロジェクト

エスコラピオス修道会カルチャーセンター:修復された遺跡 プロジェエクト

このプロジェクトは1996年から2004年に実施されました。現在は、国立通信教育大学のエスコラピオス修道会学校本部として使われています。これはまったく他に類を見ない、どういう種類にも分類することのできない一大プロジェクトでした。

というのも、修復、再建、そして新築がすべて含まれていたからです。プロジェクトを構成する様々な要素があるにも関わらず、全体は完全に調和がとれてたった一つの建築体系を持ち、現在と過去が比類なき方法で結合することに成功しています。

建築家ホセ・イグナシオ・リナサソロが主導したこのプロジェクトは、廃墟となっていたエスコラピオス修道会のサンフェルナンド教会とその周辺の敷地を文化スペースとして蘇らせようというものでした。

このプロジェエクトは都市計画として構想され、アグスティン・ララ広場がリニューアルされただけでなく、新しく地下駐車場も作られました。建物には大学のレクチャーホールと図書館が入っています。

この地区は歴史的に強い個性があり、そうした背景と教会の廃墟の姿は強く結びつけられてきました。今日ではラバピエス地区には民族的起源の様々な多様な住民が住んでいるのは興味深いことです。この再建プロジェクトはまた、この地区の変化の歴史を前提としていました。

ラバピエス地区のエスコラピオス修道会の歴史

旧エスコラピオス修道会学校

現在のマドリードのラバピエス地区の中心部にキリスト教の学校が設立されたのは18世紀初期のことでした。当初、それはサンフェルナンド学校という名前でしたが、地元の人々はラバピエス学校と呼んでいました。1729年にピラール聖母教会の礼拝堂付き司祭であったフアン・ガルシア・デ・ラ・コンセプシオン神父が、その礼拝堂の隣のメソンデパレデス通りの土地に建てました。その礼拝堂の遺跡は20世紀のスペイン内戦の爪痕を今も物語っています。

粗末な設備でしたが、大勢の子供たちを受け入れるのに適した場として、多くの子供がそこで学びました。1735年には、礼拝堂を所有していたサンフストの教区司祭がそれをエスコラピオス修道会へと提供しました。

それ以来、学校は聖母マリアの無原罪の御宿りを称えるために、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ポルテリアと名称を変更しました。1737年の後半、学校は拡張プロジェクトを実施し、オリジナルの建物に隣接する3つの家屋を追加で建設しました。

拡張から数年後、1763年から1761年にかけてのいくつかの寛大な寄付を受け、これが学校の教会建設に役立ちました。寄付者の中には、スペイン国王カルロス3世と4世もいました。ガブリエル・エスクリバーノ兄弟が教会建設プロジェクトを主導し、長方形の部屋と豪華なドームで覆われた丸い部屋で構成されたメインフロアを設計しました。

その後、元々隣にあった古い礼拝堂がヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラールという名前だったことから再び当初のサンフェルナンド学校へと名称を変更する運命となりました。

再建プロジェクトでは、教会という宗教の聖堂を、図書館という知識の聖堂に変えたわけです。

スペイン内戦中

スペイン内戦 エスコラピオス修道会遺跡

内戦中、この建物は1936年7月19日に焼けました。なんとスペイン内戦が始まった翌日でした。一部の歴史家は、マドリードの他の教会が被害を受けなかったため、恣意的に略奪されたのではないかと主張しています。ファランヘ党が、中庭で隊を組み軍事指導をするだけでなく、教会を火薬庫として使っていたと思われています。それで、ファランヘ党は市民戦争の開始となる軍事クーデターの日、7月18日の夜にバリケードをしてこの教会の中にこもったのです。

翌日の7月19日、彼らは教会の塔から機関銃で発砲し、近隣の住人に負傷者と死者が出ました。その反撃としてアナルコサンディカリスト労働組合党の無政府主義者たちは、教会に火を放ちました。

その後、建物はまったく使われず、マドリードの他の重要な建築物とは異なり、復元されず放置されたままとなりました。国立通信教育大学とその図書館が入る再建プロジェクトが始まるのは2002年になってからでした。

再編プロセス

エスコラピオス修道会遺跡

再建プロジェクトは、国立通信教育大学のレクチャーホールを作るために始まりました。これには、ラバピエス劇場を壊した後に空いていた敷地が使われました。サンフェルナンドの教会の遺跡は図書館と生まれ変わりました。

図書館はかつて教会だった場所にあり、レクチャーホールと視覚的なつながりを保っています。そして、壁に取り付けられた平行な階段を使って、レクチャーホールと物理的にもつながりを持たせました。新しい素材を遺跡の「フレーム」にすることで、遺跡を展示するようなインテリアを作り出しました。

このプロジェクトは、近代建築と歴史的な廃墟を結びつけることを目的としており、その目標を素晴らしい方法で達成しました。また、さまざまなものを調和させることにも成功しました。

さらに、プロジェクトは、建築素材の質感といった細かな側面にも焦点を当てました。建築家は、図書館と公共空間をつなぐ都市の要素をデザインに適用しました。

エスコラピオス修道会遺跡再建プロジェクトは、間違いなく、歴史的建造物を現代的な用途へと活用するために修復する素晴らしい例と言えるでしょう。